ひとりで同時に3つの声を出す唱法についての一考察

 周知の通り、ホーミーは「ひとりで同時に2つの声を出す」唱法だが、これは、人の声を構成する多くの倍音のうち、2つの帯域の倍音を極端に強調することによって成立する。
 そうすると、もし、声の倍音のうち、3つの帯域の倍音を極端に強調することができるとすれば、「ひとりで同時に3つの声を出す」ことが可能になる。実際に、西モンゴルとともにホーミーが盛んなロシアのトゥヴァにおいて「ひとりで同時に3つの声を出す」唱法が確立されている。カルギラアと呼ばれるホーミーの一種がそれだ。
 カルギラアが「ひとり三重唱」であることを、当のトゥヴァの人々がちゃんと自覚しているのかどうか、私は知らないが、これは明らかに「ひとりで同時に3つの声を出す」唱法だ。低声とメロディアスな高声の他に、通奏高音とでもいうべき、一段と高い倍音が聞こえるのをCDで確かめることができるし、自分でカルギラアをやってみても、容易に確かめることができる。
 しかし、CDを聴いても、3つの声が同時に出ているのがわからない人もいるだろう。それはその人の耳が悪いからだと言ってしまえばそれまでだが、他にもうひとつ理由がある。

 人間が同時に判別できる音は2つまでだといわれる。どういうことかというと、今例えば、ギターとベースが同時に演奏している場合、人間はその両方の演奏を耳で同時に追うことがなんとかできる。だが、ギターとベースにさらにピアノが加わったとすると、人間はこの3つの楽器の演奏を同時に別々に楽しむことはできないのだ。ギターとベースの演奏に耳を傾けていると、ピアノがどんなメロディを奏でているのかがわからなくなる。ベースとピアノに注目していると、ギターが何をやっているかわからなくなる。
 どうして2つまでしか聞けないのか、理由は知らない。これは葛生千夏から聞いたことなのだが、彼女自身もなぜそうなのか、知らない。「人間の耳が2つだから」ということと、きっと関係あると思うが、直接には関係ないだろう。
 こういうことを、理科系的に解明する能力は私にはないので、文科系的に考えてみると、こうなる。
 人間は2つのものを対置することで、初めて物事を認識することができる。例えば「善とは何か」を考える時、「悪」というものを対置して「善とは悪でないもののことである」とする。同様に、「悪」とは「善でないもののことである」と考える。そうやって、善というものと悪というものは、2つがセットになることで、きちんと認識される。
 「死ぬ」ということは「生きていないこと」である。「生きる」とは「死んでいないこと」だ。こうしたことをまとめて言うと、「Aとは非Aのことである」ということになる。
 我々が何かを論理的に考える時、必ずこの「Aとは非Aのことである」という認識の仕方で考えている。つまり、我々は絶えず、2つのものを同時に並べて、2つのものを同時に認識しているのだ。
 今、私の目の前にボールペンがある。私は「これは非ボールペンではない」から、ボールペンだと思ったのだ。この時私は「ボールペン」と「非ボールペン」を同時に認識している。今、私の目の前に女がいる。私は「これは非女、つまり男ではない」から、女だと思ったのだ。この時私は「男」と「女」を同時に認識している。
 このように、人間の認識とは、2つのものを同時に並べ、お互いがお互いと違うことを同時に認めることで成立する。「非ボールペン」なくしてはボールペンを認識することはできないし、男なくしては、女を認識することはできない。逆に3つ以上のものを同時に認識することもできない。3つ以上のものがお互いにお互いと違うということを認識するためには、2つずつ対置して認識することを積み重ねなくてはいけない。それは、コンピューターが情報を認識する時、0と1の2つの情報を基本にして、それを組み合わせることで多くの情報を認識していくのと同じことだ。
 つまり、人間の認識とはデジタルなものなのだ。
 もちろん、人間はアナログ的にも情報を受け取る。だがその時は、ひとつひとつの情報を区別しないで全体として受け取るから、それは数で言うと、「多くの別々の情報」を受け取っているということにはならずに、「ひとつの情報」を受け取っていることになる。アナログな情報をアナログのままでバラバラにすることはできない。
 結局人間が物事を認識する時、論理的に認識しようとすると、デジタル的、つまり2つのものを同時に受け取ることになり、曖昧に認識しようとすると、アナログ的、つまりひとつのもの(全体)を同時に受け取ることになる。この2種類しかない。ひとつか2つか。これだけだ。
(「曖昧に認識する」というのは「認識していない」ことでもあるのだが、その辺の話を哲学的に厳密にしても、結局同じ結論になるからやめておこう。)
 そう考えれば、人間がひとつの音のまとまりを同時に認識できることも、2つの音を同時に認識できることもうなづけるし、3つや4つの音を同時に別々に認識するのは不可能だということもうなずける。同じように、人間は声をひとつの音のまとまりとして認識できるし、2つの声を同時に認識する、つまりホーミーをひとり二重唱として認識することができる。がしかし、3つの声を同時に別々に認識することはできない。つまり、カルギラアをひとり三重唱として認識することができないということになる。
 かなり乱暴な理屈に思えるだろう。実際、自分で書いていて、そう思う。だが、この乱暴な理屈を、もっと手間暇かけて、理科系的に肉付けすれば、きっと納得いく理屈になるはずだ。最低限、「人間がある一瞬のうちに認識できるものは、ひとつあるいは2つのものだけだ」ということは間違いないと思う。
 そういうわけで、ひとり三重唱は、それを聴く側の聴覚能力、あるいは認識能力から考えて、成立しにくい唱法なのだ。だから、倍音の出し方からして明らかにひとり三重唱であるカルギラアは、悲しいかな、ひとり三重唱として一般に認知されていない。一般にはカルギラアも、普通のホーミーと同様に、ひとり二重唱として受け止められてしまっている。ひとつ分、損しているのだ。
 普通のホーミーがひとり二重唱であることは多くの人に知られているというのに、カルギラアとは、実に浮かばれない唱法なのだ。
 だが、我々は日常的に、「3つの音を同時に別々に聞き分ける」ことと、ほとんど同じようなことならやっている。ある瞬間、甲と乙の音を聞いて、次の瞬間、乙と丙の音を聞き、そのまた次の瞬間、丙と甲の音を聞くというスイッチングをくり返せば、実質的に、同時に3つの音を聞き取ることが可能になる。
 我々はこのようにして、カルギラアがひとり三重唱であることを認識し、楽しむことができる。そう、だからこそ、私はカルギラアがひとり三重唱だと気付いて、こうしてあなたに伝えているのだ。
 だがやはり、「3つの音を同時に別々に聞き分けるのと似たようなこと」ができて、カルギラアをひとり三重唱だと理解することは可能でも、「3つの音を同時に別々に聞き分けることそのもの」はできないから、カルギラアをひとり三重唱音楽として、十全に楽しむことはできない。3つの声を確認する方に神経が使われてしまい、楽しむ余裕が足りなくなってしまうのだ。  人間の音楽鑑賞能力を超えているからこそ、日の目を見ないこのひとり三重唱、カルギラア。私はなんだか今、この唱法がいとおしく思える。
 「いとおしく思える」などという詩的な表現で結ばれては身もふたもないだろうが、「ひとり三重唱カルギラアをいとおしく思おう」というのが、今回のアートワッズでのイベントのテーマのひとつなので、「いとおしい」ということで、本稿はとりあえず、終わりだ。



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