大井夏代日記
2008〜2012

2012年月01月23日 月曜日 曇り、寒い
今朝の放射能空間線量

今朝の放射能空間線量0.073uSv/h(フクイチから南南西へ250キロあたり、中国製NT6200)。庭、和室の上がり口、地面から30センチほどの板の上に、測定器を置いて(広告の紙を一枚しいた上に置く)、10秒ごと6回計測して、平均値を出した。ほか、数分見ていたけど、0.02〜0.19uSv/hまでいったりきたり。

NHK朝の連ドラ「カーネーション」にすぽっとはまる。土曜日を見逃して、むらむらして、禁断の見逃し番組単品105円を了承して、土曜日の放映分を堪能する。

2011年月11月29日 火曜日 曇ったり晴れたり
ちょっとまて、そこまでとは……

ネットでうっかりリンクをたどって、読んでしまいました。
http://ameblo.jp/maimaikaimei/entry-11080073452.html

あの、この放射能による脳障害の具体的症状、すごい自分に当てはまるんですけど。

*****引用*****

一般に知られていない脳の症状について書いておきます。これが一過性なのか長期にわたって続くのかは、はっきりしていません。

 危機感の大きな減退。
 時刻感覚の減退。
 食欲の増大。
 ステップワイズな複雑な思考の回避。
 味覚の変化。
 感情の鈍化。
 開放感(遊び)への欲求の増加。
 転びやすい。
 計画性の減少。
 複雑な文の回避。
 単純ミスの増加。
 短期記憶力の減退。
 長期記憶の取り出しの失敗。
 甘えと自己主張の増加。
 他人の感覚への共感の減退。
 状況把握の鈍化。
 滑舌がわるくなる。

*****引用終わり*****

ぞぞぞーーーっ。

言われてみれば、そんな気もしてくるあたりが、占い的というか。

まぁ、話半分として汗流しながら、とりあえず、スルーします。

スルー、スルー、スルするっと。

(M9以上のアウターライズ地震が明日にでもくる、この一,二ヶ月以内にくる、と「くるぞーくん」サイトを見てしまったのも今日。そっか、くるか、やっぱり。じゃあ、カップ麺いっぱい買っておこ、しゃーないわ、と買い出しに行きつつ、ああ、これが、危機感の減退ってやつかも、と自問しつつ)

そして、あらためて、今現在、私が理解できていることを整理してみよう。

・フクシマ原発事故は収束していない。今もフレッシュな放射能が降下しているらしい。

・3月に大量の放射性物質が降下した。それは原爆168個分(児玉先生)、1000個分〜1万個分(武田先生)などさまざまだが、ともかく、いっぱいのいっぱいのいっぱいで、チェルノブイリと同じぐらい? それがよくわからないけど、とにかくいっぱいのいっぱいだ。

・それが風にのり、雨となり、霧となり、下へ落ちた。地面にしみて地下水へ、根っこが吸収して植物へ、植物を食べる動物たちへ、どこかに集まったり、最終的に川へ海へと流れ、そして、生体濃縮したりして、えっと、あちこちに高濃度の放射能汚染が続く……食物連鎖の頂点に、いま、人類がいるわけだから、そりゃー、たまります、放射能が体内に……。

・首都圏の放射能汚染は、相当深刻。チェルノブイリ級かそれ以上か?

・外部被曝と違い、内部被曝は、とっても小さい量でも生体に影響を及ぼすらしい。これまで徹底的に隠蔽されてきたようだ。だから、確かなことは、わからないみたいだけど、みたいだけど、どうも、とてもとても影響大みたい。子どもはもちろん、大人だって!

・因果応報。これまであまりにも人類は地球から奪いすぎた。他の生物から命を奪いすぎた。たぶん。分を超えた傲慢な生を謳歌しすぎた。たぶん。核兵器・原子力利用という業のつけは、あらゆる自然の恵みから見放される、ということ?

・だんだんと知能が低下し、記憶が消えていき、体力が衰え、病気がちになり、心も体も病んでいくって……一世代だけでなく、30世代も続く?? そんなことがおこるかもしれない……じゃなくて、現在進行形?

・ということは、限りなくゼロベクレルを目指すのが、生体として「生き延びる」ための処方。

・息をしない、飲まない、食べない、であれば、簡単にゼロベクレルだけど、それは、死を意味するわけであり、ということはよ、徹底的なローバジェット体質になれってことですわね。めざすは「ナマケモノ」か。

・ああーーー、そういえば、飲まず食わずの「不食」「断食」というものがあった。そうだった。思い出した。私も数年前から気になって、1日2食を実践していたけれど、最近、どうもあやふやになりかけている。玄米生菜食が究極の健康食ではないか、と思ったけど、一回ぐらいしか実践できていないし。目指すは「不食」……は、無理にしても、まず、「少食」が、この低線量被曝な世界では有効な生き延びる処方ではないか。そうだったか。ずっと準備していたはずなのに、肝心なときに忘れていた……ぞぞぞーっすでに放射線の影響???だったり???

・基本は粗食の少食。たまーにごちそうをいただく。それは数ヶ月に一度ぐらい? それが理想な食生活。10アンペアで暮らすことを提唱している西川豊土さんは、雑穀米と具たくさんの味噌汁と豆入りサラダというメニューで暮らしておられるけど、それも、ひとつの理想だ。精進揚げとお豆腐もいただく。エゴマ油やしそ油、亜麻仁油のドレッシングで、油は油をもって洗い流す。

・水を1日2リットル以上飲む、16時間は胃腸を休ませる(一日二食)、腹八分、肉食ひかえる、乳製品控える、卵控える、白砂糖控える。つまり、お菓子やケーキや和菓子を控える。どうしても食べたくなったら、塩をなめる。これは有効なり。発酵食品をよう食べる。味噌、なっとう、しょうゆ、つけもの……。

・朝5時に起きる。そして朝日を浴びる。夕焼けもよう眺めて、夕日も浴びる。

・すべてにおいて、引き算の生活。「ロー」を基本とする生活。とりあえず、車は廃車にした。持たない生活。ものをもたない生活。かばんひとつでいつでもどこへでもいけること。

・息をすること、歩くこと、遠くを見ること(物理的に)、そういう生きる基本動作をとても意識して行うことが大切、たぶん。

・物を減らす。とにかく減らす(とてもむずかしい)。整理整頓してものをへらす(とてもむずかしいが、やるのだ)。

・身の回りをそうやってものをへらし、整理整頓して、きれいに掃除して、ほうきではいて水拭きして、ぴっかぴかにしていく……

・だんだん、実現不可能なことを書いている気がしてきたけど、ま、志、志。

・そうだ、気合いだ。って、肩に力を入れるのではなく、抜く。リラーックス。これ、むずかしいが、安心安寧の気持ちを保つ。心身統一の四原則を実践することが、この311以後の世界を生きる基本的姿勢。合氣道だぁーー!!//Keep one-point/Relax completely/Keep weight underside/Extend Ki//

・もう、すでに十分放射能にやられて、ステップワイズで複雑な思考を回避しているそのものになっているように思うけれど、まぁ、そういうことで、今生きていることそのものに感謝し、生き神さまたち(縁ある生きている人々すべて)、神様たち(ご先祖様たち)、これまで命をいただいたすべての動植物のみなさまに心から感謝して、感謝して、今日は眠るとしよう。

昨日のように、せっぱつまった死と隣り合わせでスリリングすぎてこわいこわい状況の夢など見ませぬように。緑豊かな中で、たらふくおいしい空気をすって、ふんわり心を遊ばせているような、なにかに自分がなったつもりで今日は寝よう。おやすみなさい。また、明日。

2011年月11月02日 水曜日 めちゃいい天気
韓流ドラマ『薯童謡(ソドンヨ)』に結局はまりました。

日々、放射能なニュースに驚く毎日でしたが、「ソドンヨ」にすぽっとはまっていました。すでに2回目、3回目、いや、10回以上同じシーンを見たりと、なにやってんだかな……。

今日は第40話(BS朝日)。このあたりから、やめられないとまらない状態になるストーリー展開で、それは役者さんたちがとてもいい演技をされているというのと、その役者さんたちに入れ込めるだけの情報がこちらがわに蓄積されて(なにせすでに39回分)、もう、すぽっと、「ソドンヨ」の世界にはいっちゃうという、見事な韓ドラ手法のせいというか、おかげというか。

サントラ盤を買うことを今朝決意しました。さらになにやってんだか、な、ですけど。

それとは別世界では、って、こっちがほんまの世界ですけど、ここずっと、私はベラルーシの現状というものが知りたくて、いろいろネット検索していたのですが、ベラルーシでは「すでに放射能はない」ということに建前上なってるらしくて、全国に300箇所以上あった食品などの汚染を調べるセンターもすべて閉鎖された、と。「情報なきところに汚染なし」ということなってるらしい。内部被曝に関してもそうだけど、調べれば調べるほどわからなくなってくる。なにが本当なのか。もー、Xファイルな世界です。

でも、とりあえず、現在のところ、私の放射能対策は(8歳児対策)、

・内部被曝0ベクレルを目指す(原則)

・牛肉とキノコ類は世の中からなくなったと思い込む。スーパーで売っていてもそれは「これは幻影だ」と思い込むことにする

・土壌汚染日本地図を頭にたたき入れて、1万ベクレル/平方メートル以上の汚染エリア産のものは食べさせないようにする

・水は蒸留水。牛乳はなるべく飲まない。特に給食

・朝、蒸留水をコップ一杯は飲むようにする(飲ませる)

・市販のお菓子類はなるべく食べない。乳製品もひかえる。自家製を心がける

・お味噌、ぬか漬け、梅干し、納豆、醤油、くだものいろいろ、野菜などを多く食べるようにする

・揚げ物などを控える

・でも、1ヶ月に一度(うーん、2週間に一度)ぐらいは、ルールをやぶってもいたしかたなし

・夏休み、冬休み、春休みと長い休暇のときは、汚染のより少ない場所へ疎開する

・日々、よく笑うように楽しく過ごす

放射能を排出しやすいといわれる食事が、ローフードであったり玄米生菜食に限りなく近いみたいで、西式健康法も、おざなりになりがちですが、それも復活させて、ともかく、身体の免疫力をつける、ということを心して実践し、「放射能」をかわしてかわしてかわしつづけるということを一生やっていく、ということなのかなぁと思います。

「放射能」に、不幸、とか、悪魔、とか、悪行、とか、偽善、とか、嘘、とか、見栄、とか、いろいろなネガティブワードが交換可能だな、と書いていて思いました。まぁ、そーいうことなんだろうなぁと。

2011年月09月21日 水曜日 ものすんごい嵐 台風15号直撃中
韓流ドラマ『薯童謡(ソドンヨ)』が……

こちらは9月8日からBS朝日で始まった韓国ドラマです。義姉さんと義妹さんがそろって「韓ドラ・ナンバーワン」と太鼓判を押すので、見てみようと思って見始めております。まだ10話ですけど、55話まであるんですけど、どうしたらいいのでしょう。はまらないようにはまらないように気をつけて……。

やっぱり、おもしろい。主人公が自然を相手にいろいろなことを発見発明していくところなどは、とくに。恋のお話もそれなりに。韓ドラも何作か学習したので、はらはらどきどきしっぱなしではないわけですけど、うーん、まだ、主人公が暗いのがちょっと気になるけど、そのうち、元気になるのかなぁ。

とりあえず、先が気になってあらすじを全部読んでしまったりしないで、おとなしく放映されるがままに楽しみたいと思っているわけですが、すでに、ちょこっと読んでしまいました。ほんのちょと。あと、百済の歴史、朝鮮の歴史などを調べたりして、このドラマの頃、日本は飛鳥時代、聖徳太子の時代。紙はなくて木簡っていうの? 木に文字を書いていたような……。なにもかも中国からいただいていたようだけれど、韓国からもいっぱいいただいていたものがあったみたい、とうっすらとわかってきて……はっとしたわけです。

「あ、日本にとって、中国は父、朝鮮は母」なのではないか?と。現天皇は朝鮮との関係を公にしてますし、だーれも教えてくれなかったけど、そーいうことなのね、と勝手に納得。日本は、飛鳥の頃は手取り足取り教えてもらう子供だったけど、1000年ぐらいたって、だいぶ大きくなって、この100年あまりの間、敬うべき父と母に大変失礼な態度をとってしまったということなのだろうかなぁと。

あまりにおおざっぱで、お子様な考察ですけど、私の歴史認識はこんなふうになってしまいました。中国は父、朝鮮(韓国)は母、日本は子供。万世なんとかのどうしてとかはわかりません。

お互いを敬う心があれば、国も人も家庭もだいぶ平和になるような気がしています。

(12000年続いたという縄文時代が気になるけど。それこそ日本の基底をつくった時代なのだろうと思っていますが、ま~とりあえず、韓ドラの恩恵を受けさせていただこうと思っています)

2011年月06月03日 金曜日 晴れときどき曇り
きのうの食卓

我が家の昨晩の食卓をご披露します。

白いご飯:生活クラブの予約米を電気炊飯器で炊きました(ほんとは土鍋で炊いて、おひつにいれたい)。
お味噌汁:具はキャベツ(神奈川県産)、だしは昆布とコープの顆粒かつおだしのミックス。味噌は山梨「つくたべかん」からおとりよせの手作り味噌。
きゅうりのぬかづけ:ぬか床は自宅でやっとります。きゅうりは埼玉県産。
豚肉ブロックの甘辛煮:単に弱火でぐらぐらゆでた豚肉塊(シャトルシェフ使用)に甘辛醤油をからませてつくりました。豚肉は生活クラブ、山形県の平田牧場産。
めんたいこ:おうちコープもの、単に冷凍を解凍して切って、皿に盛りつけただけ。
油揚げ:単にトースターで焼いたものを切っただけ。生活クラブ。
いんげんまめ:単にゆでただけ、近所のスーパーで、沖縄県産。
トマト:単に切っただけ、近所のスーパーで、熊本県産。
エゴマの寄せ豆腐:生活クラブ。
ナムル:生活クラブのできあい冷凍もの。解凍して皿に盛っただけ。
他はのこりもので、筑前煮(一応自分でつくった)、ミニトマト、大根の漬け物(生活クラブのできあい)。
子供の飲み物は蒸留水(ハーレー2で浄水して、台湾製蒸留水器で自宅で蒸留)。
大人は浄水を使用して熱い麦茶、料理には、米・味噌汁だけ蒸留水使用。
食後に美生柑(おいしいおみかんです、西日本産)

それぞれいくらぐらいか、を書くと、昨日の晩ご飯の金額がでてくるので、やってみたいけど、だいぶめんどうなので省略します。昭和一ケタ生まれ、1960年代生まれ、21世紀生まれの各人が満足するように、あれこれ並べるというのが我が家の特徴です。

2011年月05月27日 金曜日 くもり
小学校では水道水を飲もう

なのだそうだ。この四月五月の職員会議で、学校側としては、学校の水道水は安全なので、児童のみんなは安心して飲むように、と決まったそうだ(ある川崎市立の小学校)。

水筒を持っていくと怒られる、給食(牛乳)を残すと注意される、と娘が言うので、いまどき、そんな指導をするなんて、どうかしていると訝しく思い、さきほど、担任の先生に「本当ですか?」と直接会って尋ねてみたのだ。

学校側としては「水道水を飲むように」ではあるけれど、アレルギーなど特別な事情があれば、事前に申し出てくれれば、許可する、とのこと。お弁当も、事前に申し出れば、許可するとのこと。校長からも言われているが、もし、放射能など心配される家庭があれば、対応するように、といわれているので、そういうことであれば、いいですよ、水筒をもってきても。あなたの家庭だけ、特別に許可しましょう、というニュアンスでやさしく諭された。

途中から、先生の表情に哀れみが加わってきて、「え、わたしって、いま、モンスターペアレンツになってる? もしかして」という疑念が涌いてきたが、打ち消そう。先生のいうことは、いまいち娘の言うことと食い違うが、不問にしよう。

だが、マスクをして登校してる子は非常に少ない。水筒を持ってくる子も少ない。ましてや弁当を持ってくる子なんて皆無だ。我が子だけマスクをさせ、水筒を持たせ、かつ、お弁当を持たせたら、それこそ、クラスの村八分。事実上、無理ではないか。そんなこと! 

国の末端機関である公立小学校では、みなで一緒に内部被曝を日々累積させていこう、東日本の農家(ひろく生産者)の人々が困らないように、牛乳も野菜も水道水も東日本産をばりばり食べて飲んで、どれも微量の放射能入ってるかもしれないけど、そんなのすぐにどうこうするようなことないし、たいしたことないから、経済社会を停滞させないように、こどもたちの命を差しだそう、と。そういわれたも同然だ。

はらわたがにえくりかえったが、担任の先生のせいでもないし……この行き場のない感情をどうしてくれよう……と、こうして、日記を書いてたりします。

でも……最近になって、なにもこの放射能社会、今に始まったことではなく、戦後一貫して、我々は人工放射能にさらされていたのではないか、と。二人に一人ががんでなくなる現在、それは、食生活の欧米化、だの、食品添加物がどうした、だの、言われてきたけれど、ことの本質は、低線量の人工放射能被曝によるのではないか、と。

アメリカのえらい学者さんが調べたことなどを知るにつれて(乳がんや乳児死亡率・白血病と原子力発電所の相関関係)、ええーっっっ、やややのやっと。低線量の被曝が及ぼす影響は、見過ごすことができないということ。

免疫力がすべて? 和食とりんごと積極的精神か。心構えと食生活。

でもでもでもでも、昆布まですっぽりセシウム入りになってきたら、和食のだしはどうしたら? かつをさんにも高濃度のセシウムがあったりしたらば??(すでにグリンピースさんたちが調べてくれたので……今後は、和食もどうなんか、うーん……)

コペルニクス的発見や展開があることを祈ります。ああ、毎日、玄米と梅干しとぬかづけかしら。超粗食。

私は大丈夫だけど、家族はだれひとり賛同してくれないだろうなぁ。

ああ、自分らのことばかり心配していることが恥ずかしいわ。

まずは、福島第一原子力発電所で働いている人々に心から感謝いたしますです。

最後になりましたが、ほんとうに、応援しています。吉田所長!

あ、それで、数週間前にたどり着いた答えは、

「明日死んでもよいように、今日を(楽しく)生きる」だったんだけど、

「次の瞬間死ぬかもしれないと覚悟して、今を(楽しんで)生きる」と、最近、サイクルが超短くなってきました、なんとなく。

一応、そう、自分に言い聞かせて、さまざまなことを判断して行動していこうと。

2011年月04月10日 日曜日 晴れ
放射能と卵子

放射能ってなんだかよくわからない、けど、すべての生物の遺伝子DNAを損傷させる力(あるいは変容させる力)がある、らしい。たとえ、一本の放射能でも、細胞を壊す(影響を与える)。だから、大人より子ども、子どもより乳児、乳児より胎児により影響が現れるという。

なんてことを、ここ最近勉強しちゃっているわけだが、8歳の娘を持つ母として、一番気になる情報が「チェルノブイリの少女たち、たとえば10歳前後で被曝した子たちが大人になり子どもを生んだとき、先天性障害児が多く見られた」。

卵子は生まれたときから持っているといわれるので、少女たちの卵子は10歳の時、チェルノブイリ原発の爆発事故により、ありえない高レベルの人工放射能を浴びて変容を受けた、と推測すると……。

そして、はたと気がついた。あの、私の世代も、すでに放射能、かなり浴びてるんじゃなかったっけ? と。1961年から1962年にかけて、米ソで大規模に行われた大気圏内核実験。ぐぐってみると、ひとつのデータにいきあたった。日本の成人男性の体内放射能、61〜62年にかけての数値に比べて、チェルノブイリ原発事故後の数値は10%だそうだ。前者の平均が510ベクレル、後者の平均が20ベクレル。あれ、つまり、60年代初頭のほうが、チェルノブイリより20倍以上、体内放射能多い……。

http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-01-04-09

で、ややっと思った。私の知る身近な人で、1961〜63年に生まれた人……不妊症の人が多い。外見上は、もちろん、ごくごく普通の人だ。知能だって普通どころかそれ以上かもしれない。えっと、なんだっけ? 遺伝的な弱さは最初に生殖器に現れるってきいたことあるような……。

「ただちに健康に被害はない」と政府も学者様たちもおっしゃるが、放射能は自然状態でも常に浴びているのだから、と。目に見えないほど小さな細胞だったころに、たぶん、自然にはありえない人工の放射能をそれなりに浴びたのであろう60年代初頭生まれの人々、つまり、私も含めた同世代、私らがひとつの結果を出してるのじゃないか?

京大の小出裕章先生のいう「最悪の事態」というのは、原子炉で再臨界がおこり、水蒸気爆発により原子炉が破壊され、これまでとは桁違いの放射能が大気に大量放出される、チェルノブイリのような、あるいは、チェルノブイリ以上の……。チェルノブイリでは、事故から25年たった今も、700キロ離れた区域にも管理地域があるという。風向きによるけれども、700キロ離れていても、高レベルの放射能が降ってくる、かもしれない。

そんな「最悪の事態」は、なんとなく起きないと思っていた。だが、1号炉での再臨界は、たぶん、起こってる。そう思わないとつじつまが合わないと、小出先生。ほか、何人かの学者先生も、再臨界が起こってるようだというので、ここ数日、イヤーな感じがする。ほんとに大丈夫なの??? 1号機さん。なんでまだ240度もお熱があるの? なんで、炉内の放射能が急に3倍になって100シーベルトなわけ? 水蒸気爆発を避けるために、窒素を入れているらしいですけど、それって大丈夫なの……信じてもいいんすか?????

福島の人々、現場で作業している人々には本当に心からの感謝を思う。がんばって下さい。がんばって下さい。応援してます。

だが、人間の力及ばず、もし、「最悪の事態」となり、風向き悪く、私らの住む地域にも(250キロ)、高レベルの放射能がやってきたら……。

神に祈るしかない。

じゃなくて、海外脱出という手もあるわけだけど、それってお金のある人がすることだし。

半径700キロというと岡山・鳥取、北海道の真ん中あたりまで入る。

逃げるなら、日本なら九州か沖縄か。あるいは知床半島とか稚内とか。

起きたときでは遅いのだ、たぶん。娘の卵子は変容してしまうだろう。

成長期の娘自身も心配だが、娘の次世代のほうが、より深刻なのかもしれない。娘の体内に宿る卵子という次世代のきみたち……。

なにかが、足下から、なにかが喪失していく感覚に襲われる……。

たぶん、怖くて怖くて仕方がない、ここ最近の私の感情の正体はこのあたりにあるのだろうか。

やっぱり、これは、決して起こらないことを神に祈って、現場の人々、日本人を信頼し、日々をいつも通りこなし、時を過ごすしかないのか。

それが日本人としての流儀だろうか。

(ああ……もるげっそ)←韓国語でわからないの意

2010年月12月02日 水曜日 薄曇り
不倫ライターのお言葉にどきっ!

ケーブルテレビ(LaLaTV)の番組で「男子禁制」というものがあります。んで、今日、ふとテレビをつけたら、それをやっていて、不倫ライターの亀山早苗さんが「自分の価値観が崩れる瞬間が好き、だって、たいした価値じゃないじゃん、とわかる。いつも自分を疑っていく、植え付けられた価値観ではないのか?」と、おっしゃっていて、「ええっ?」と。

つねに自分を疑って生きていくのか、と、眼前に砂が吹きすさぶ砂漠の景色が……。そんなきつい道を行くのか?と。価値ある価値観とは何なのか? そういう自分とは何なのか? 今でもそのような地平で生きてるということは、心は青春のままではないか? それって、大人が大まじめで言っていいのか? とか、いろいろなことが頭に浮かびました。

亀山さんは1960年生まれ。私よりひとつ年上でした。砂漠のように渇いた心が常にあるという感じはわかる気がします。五十路になっても、なお。いや、もしかしたら、人間とは、そういうものなのかもしれない。とか、思うけれど。

うーん、でも……昔の女性と、不倫できる・離婚できる自由を得た現代の女性と、どちらが幸せなのか? 自分とか、価値観とか、そんな言葉すら考えなかったかもしれない時代のほうが、女性として、実は幸せだったりすることもあったのではないか、と。

幸せの種類も不幸せの種類も広がったってことだろうか? 生物多様性ならぬ幸不幸多様性……うーん、まぁ、それはそれで……もるげっそ(←韓国語で「わからない」の意)。

2010年月10月24日 日曜日 朝は薄曇り
中国・上海万博へ、日本館は2番人気です!

先日、上海の親戚のおうちへお呼ばれされて、生まれて初めて上海へ行ってきました。お世話になりました、上海のみなさま〜。快適な旅でした。ありがとうございました〜。

で、新聞テレビを見る限り、中国に着いた途端、投石されてもおかしくないんじゃないか、こわいよ〜と思ってたけど(ちょっとうそ)、そんなことはなくて、ほんとぜんぜんなくて、上海万博の日本館なんて、人気ナンバー2です。あ、一番人気は中国館なので、外国パビリオンの中ではということなんだけど。外国パビリオンの中で2番人気だそうです。8時間待ちだったりするとか。

会場は、へんな建物、つまりパビリオンが点在し、広い通路に広場に、行列。行き交う人々、みな中国語ばっかりで、つまり、中国の田舎の人たちがごっそりやってきているらしい。素朴な感じの人々。お化粧している女性が少なくて驚きました。たぶん、大阪万博もこんな感じだったのだろうなぁと。世界博とはいっても、なぁみたいな。パビリオンの中に入れば、世界のいろいろな地域の人たちがいらっしゃるのでしょうが、広場には中国語オンリー。そっか、安価な世界旅行みたいな。そういうことなのね。日常から解放された自由な感じ、穏やかな空気が漂っていました。

街中も殺気だった空気は皆無で、平和なものでした。平和といっても中国だから、道路を走る車の荒っぽさや、店先での人々のけんかしてるようなやりとりとか、日本とはレベルの違う緊張感があるけど、まぁ、反日運動なんてどこにもなかったし、日本語しゃべっているからと、こづかれることもなく、少なくとも上海の人々はお客様ウェルカムな空気でした。

街はスケールがなにからなにまで日本よりずっと大きくて、ばんばん高層ビルが建っていて(ビルの形や色がおもしろい)、大きな川があって(泥川だ、ばっちいけど、深いらしい)、いろんな人が一杯いて……こりゃ、ニューヨークによぅ似てるわ、と、たった一度行っただけのアメリカの大都会、ニューヨークの空気を思い出しました。自由、多分、中国人にとっても、そして外国人にとっても、自由な街、なんだろうなぁと。

中国は17年前に2回、大連、瀋陽、北京と行ってるので、今回は17年ぶりの中国・上海。一番おもしろかったのは、たとえば、ぴかぴか近代な建物のただ中に、私が中国らしいと思うばばっちさとか猥雑さとかいい加減さが見え隠れしているところでした。お金持ちが買うのであろう高層マンションの非常階段が、まぁ、狭いくらい汚いという状態で、新しいビルのはずなのにこの階段だけ古い?みたいな。

102階の高層ビルにも行ってみたけれど、うーむ、やはり、テレビ塔に行きたかったと思いました。高さは抜かれちゃったけれど、やっぱり、あのまか不思議な色の球体建物は、やっぱり、へんだ。おかしい。中はどうなってるの? という純粋な好奇心。で、そういう目で見ると、上海の街には「まる」が、いたるところにある、と中野。なるほど。

日本に戻ると、道路も建物もどうしたの?ちぢこまっちゃって?と見えたほど、中国・上海のスケールはでかかった。東アジア一の都会というのは、本当なのでしょう。外灘(バンド)、豫園(よえん)商場、朱家角(しゅかかく)などに行って、人々の並々ならぬ活力を感じて参りました。

数年前から欲しかったけど高いから諦めていた茶盤(中国茶を入れるときのお湯をこぼしてもオッケーなお盆みたいなもの)を朱家角の茶器屋でみつけ、親戚の中国の人が交渉してくれて、半額でゲット。日本円で1200円ぐらいかな。安い。缶コーヒーも45円ぐらいだったし。物価は安いけど、皆で殺気立ちながら生活してる風で、それはちょっときついなぁと思った次第でした。

あ、そうだ、これはおもろい、と思ったのが、朱家角の船頭さんや上海のバスの運転手さんの傍らにおいてあったネスカフェの空き瓶?という代物。サイズといい形状といい、そっくり。蓋が黒で、透明ガラスで円柱で。だから、たぶん、いわゆるネスカフェの空き瓶。もとのおおきなやつ。その瓶の中にはばばっちい茶色の液体と少々の物体が浮遊していて、一瞬で「これはゴミだ」と私は思ったのだけれど、よくよく見たら、浮遊物はお茶の葉だった。茶色の液体は、だから、お茶。つまり、どうしたわけか、ネスカフェの空き瓶にお茶の葉を入れて、お湯を入れて、お手製の携帯ドリンクとして、愛用してるらしいのだ。上海のある人々は。

お茶をネスカフェの空き瓶で携帯して飲むということが、上海の人には当たり前のことみたいなのだけど、それは、私には一瞬「ゴミ」としか見えないものだったりするというあたりが、中国4000年の歴史を今見るみたいな感じがして、おもしろかったのでした。

2010年月09月11日 土曜日
1984年秋、リクルートスーツのスカートにミニ丈はありえない

先日の「ゲゲゲの女房」で、長女のリクルート姿にハッとした。
1984年10月、リクルートスーツを着て、教員採用試験を受けに行くシーン。膝上10センチぐらいのミニ丈なのだ。

ありえない。

まず、同世代の感覚として違和感があった。

また、当時、私は『アクロス』というパルコが発行していたマーケティング情報誌で「定点観測」というストリートファッションのページを担当していたので、当時のファッションのことは、ことさら明確に覚えているのだ。

ありえないってば。

カジュアル時にミニ丈のスカートやキュロットを着ることはあっても、就職活動というオフィシャルな場面にあのミニ丈はありえない。「女はクリスマスケーキ」なんていう格言が、まだ、生きていたんだから。24歳までに結婚しろ、と。25歳になったら、もう、いきおくれだ、と。女性の目覚ましい社会進出は、1986年の男女雇用機会均等法以降であるからして、保守的志向が色濃く残っていた当時にあって、そのような社会に迎合すべく就職活動するスタイルに、革新性や進歩的というイメージが生きていたミニスカートは、ありえなかった……と思う。

ちっくと、NHKドラマの時代考証に疑念が出てしまったので、覚書として残しておきます。

1980年代から90年代初頭、インターネット・携帯電話が爆発的に広がる前夜の時代のことが、一番、インターネット上に情報が少ないと、常々、中野が申しているので、まさにその時代、青春時代を送ったひとりとして、記憶をとどめておこうと、ことさら意識したりしていたりします昨今。

そうだ、今日の朝日新聞にはオフコース「秋の気配」という名曲について、2ページにわたって記事がのっていて、じっくり読んでしまったのだ。そのことについては、以前にちょこっとだけ書いたけれど、ほんとは、うーんといいたいことが私の中にあるようだ、と、新聞記事を読みつつ、心がぐるぐるしてきたのだった。ふぅっ。でも、今日はここで切り上げます。

(そういえば、今日は9.11か……だからどうしたこうしたもないけど)

2010年月08月19日 木曜日
何のためにこの世に生まれてきたのか

先日、娘(7才)にそう質問してみたところ、即答。

「お父さんとお母さんが本当に仲がいいか、確かめにきたの」という。

あーっ、びっくり。

どうして、そんな質問をしたかというと……

つい先日、ファミリー旅行先の宿で、夜、親子3人、川の字で寝ていたら、超ゴキゲンになった娘が
「ねぇ、どうして、お父さんとお母さんは結婚したの? どっちから言ったの?」と、しつこくしつこく聞いてきた。
「忘れちゃったな〜」とそらっとぼけると、
「うそだ」ときっぱりいって、何度も何度も同じことを聞いてきたので、
「まだ、お星様のかけらだったサラ(娘の名:仮称)が、何かしたんじゃないかな? サラの力かな」と私。
「そうだよ」と、娘があっさり言った。
「お母さんは、自分がお星様だった頃のこと覚えていないの?」
「うーん、お母さんは忘れん坊だからねぇ〜」
「サラは覚えている。ずいぶん忘れちゃっているんだけれど、覚えている、少し」
「へぇ」
「サラの部屋には何もなかったんだけれど、あるとき、機械ができたというか、つくったというか。小さな部品をお父さんとお母さんの身体にしみこませて、お父さんとお母さんが何をしているのか、その機械で見ていたの。その機械を通すと、お父さんとお母さんが今なにをしているのかがわかるの。だけど、その機械、何度も壊れてさ、お父さんとお母さんの最初の出会いは操作しなかったんだけど、その後は操作してた。一緒にご飯食べたりするようにね。でも、ほんとしょっちゅうこの機械が壊れたから、どうやって結婚したか知りたいのに……」と、くるくるよく動く瞳で、私をねめつける娘。なんだか、奇妙にリアルなことを言う。

「いろいろな人の操作をしたけど、お母さんが一番おもしろかった。ほんとうにおもしろかった」

「へぇ、じゃあ、サラは神様だったの?」

「そういうわけじゃない」

「ふーん、じゃあ、サラはお父さんとお母さんのひっつき虫として生まれてきたのかな」

「そうだよ」

「そっかぁ、じゃあ、何をするためにこの世に生まれてきたの?」

「お父さんとお母さんが本当に仲がいいか、確かめに来たの」

「えっ……そうなの? じゃ、今、けっこう仲いいからいいでしょ」

「だめだめえ」

「えっ、合格じゃないの?」

「そう、たくさんの人の前でもチューできないとだめ。らぶらぶぅ〜って。ただ、抱きしめるだけとかも、だめ」

「うわー、ハードル高いんだね」

「そうだよ」

ゴキゲンの娘は、またもや、不思議な話をしてくれた。

真偽のほどはともかく、”家族仲良く”というか、もしかしたら、"愛すること"というか、なにか大切なことを思い出させてくれた。

んーでも、恋愛真っ最中みたいなわけには、すでに銀婚式目前の私には……むづかしいんですけど。

2010年月07月24日 土曜日
毎日泣く、そして、笑う

4月終わりぐらいからか、朝ドラ「ゲゲゲの女房」を見始めてはまり、人ごとと思えず、毎朝のように、泣いている。男優陣のキャラクターがとてもいい! たぶんモデルとなる人物も魅力的だし、男優さんも味あり。昭和な時代背景、家や街やインテリアや小物類(おきあがりこぼしの人形とか、カネヨン?とか)も、ぐっとくる。メディア興亡史のようでもあり、それが、すごくおもしろい。

そうだ、それで、この4月から「朝5時起き人間になる」と、今年の第一の目標を決めて、早起きのえさとして、韓ドラを見る、ということにしたら、けっこう、起きられるようになって、これまた、早朝からぼろぼろと泣いてるのだ。もちろん、感動の涙。

気がつくと、大河ドラマを見ても泣き、朝の英語ドラマ「リトルチャロ2」を見ても泣き、もはや、涙の大安売り。

大昔、祖母がある日、テレビを見ていて船出のシーンが出てきただけで、ぼろぼろに泣いていて、「なんで涙が出るのか、ぜんぜんわっかんなーい」と、当時小学生だった私は思ったものだが……今や、その祖母状態になっているのが、五十路に限りなく近くになった私である。

新聞の痛ましい事件を読んだだけでも、涙が潤んできて、もやは、先に読み進むことができなくなったりする。洗濯機で回された子供って……どんな気持ちがしたのだろう……と、なぜか、すぐにそう連想してしまうのだ。

一方で、自分の子供がやらかす想定外のいろいろなことに、毎日大笑いもしている。

現実は大笑い、架空の世界で大泣きするという、感情の振幅が激しいといえば、激しい毎日かも。これって、もしかして、老化防止にいかも。

2010年月07月17日 土曜日
駅メロに思う

女ま館へ行く道すがら、西立川駅に降りると、ユーミンの「雨のステーション」のメロディが電車の出発時に流れる。この曲は、まだベースがあったころの西立川の街が舞台なのだそうだ。なんだか、一気に気分が70年代にいくのである。暗くてしっとりして、でも、なんだか、まどろみのしあわせが少しみたいな。

で、実家に帰るために利用する京浜急行線、上大岡駅。ここでは数年前から、ゆずの「夏色」が流れる。詳しくは知らないけど、たぶん、横浜出身の彼らのこと、「夏色」は上大岡となんらかの関係があるんだろうなぁと。この曲を聴くと、私は「君を自転車の後ろに乗せて、ゆっくりゆっくりくだってく〜」という一番好きなフレーズが頭をぐるぐるして、気分は、バブル崩壊後の暗黒の90年代終わりな気持ちに襲われるのだ。

ああ、こうして、日本はゆっくりと下り坂をこれから歩くのだ(わたしはこれからゆっくりと老後へむかってひたすら年をとっていくのだ)とか、そういう、マイナスなようでいて前向きな気持ちになったりする。

ゆずは新百合の駅前でもよく歌っていたそうで、うちの姑は、ストリートに立った頃の彼らを知っていて、「どんな雑踏でも、一本、声が通ってはっきりと聞こえてくるグループがあって、この子たちは、ぜったいものになるわ、と思って、がんばりなさいよ、と声をかけたのよ」と。その彼らが、「ゆず」であることは、つい最近わかったことなんですけど。「あら、この子たちよ」と、ある年の紅白歌合戦を見ていた姑がもらしたので、なに〜ゆずだったのぉ〜と。

オフコースの歌で「東京はたそがれて、ほんの少しだけ、やさしく見える」という、「ひとりで生きて行ければ」という歌の歌詞、これは、中野曰く「横浜や多摩丘陵から都心を見たときの風景」と断言。東京に住んでいては出てこないフレーズであり、オフコースが横浜出身であることが、身近に感じられる歌で、私もなんだか、この歌は大好きである。

横浜な歌というと、あと、オフコースでは「秋の気配」とか、ユーミンでは「海を見ていた午後」とか。山崎まさよしの「One more time, One more chance」にも、桜木町など、横浜が出てくるなぁ。

もちろん、このあたりの歌といえば、サザンオールスターズの湘南な歌いろいろとか、港のヨーコヨコハマヨコスカとか、百恵ちゃんとか、70年代〜80年代前半は、ルート16沿いに日本の新しい文化が生まれていたのだろう、と、かつて書いたことがあったのだけど、ほんとそうなんだろうなぁと。

村上龍の「限りなく透明に近いブルー」なんぞは、福生のあたりのにおいがするし。米軍基地が多数存在するルート16沿いに、花開いた文化としては「ハマトラ」もわすれちゃいけなーい、と。

んで、何が言いたいのかというと、特にはないんだけど、自分が生まれ育ったエリアが出てくる歌が、自分が相当に好きな曲だったりするというのは、たぶん、偶然の一致ではなくて、なにかがあるんだろうなぁと思うなぁと、まぁ、それな感じです。

70年代〜80年代はじめの、横浜とルート16沿いの歌とファッションとストリートというのは、私の身体のどこかに埋め込まれているような気がします。

2010年月06月24日 木曜日
敢えていう、陣痛は痛くない!

先日、知人が妊娠した。陣痛が怖いというので、「そんなことないっ」と力説。必要以上に「痛い」ということが流布されている気がする。お願い、頭から「陣痛は死ぬほど痛い」なんて思わないで。痛みは波のようにやってくるのです。ものすんごく痛いときとぜんぜん痛くもかゆくもないときが交互にやってくるのです。そして、リラックスして、身体から力みをとり、痛みを逃がしていく。ゆったりとした気持ちで、痛みを受け流す。そういう気持ちで臨めば、陣痛は、「敢えていう、(死ぬほど)痛くない!」。

確かに、涙が出るほど痛いです。だけど、痛いからと、手と足を固定させて、大声を上げさせるような、あのような、分娩準備室のベッドの仕様……もう、妊婦を馬鹿にしているにもほどがある。あ、もちろん、厳しい例もあるけれど、厳しい例だけじゃないから、いたずらに不安に思わないでおくれ、これから生もうと思ってるおなごのみなさん……という思いを持つに至った、私の陣痛出産体験をご披露します。

★激白! 陣痛!!

2002年某月某日
 朝から1時間ごとに腹部に鈍痛が走る。夕方6時台になると、20分間隔になる。恥
丘のあたりから肛門の奧にかけて鈍い痛みが走る。
 夜7時過ぎ、夕食の支度を手伝っている間も、この鈍痛で座り込んでしまう。立っ
ていられないほどの痛み。夕食をいただいている時には、再び鈍痛に襲われて思わ
ず、箸を落としてしまう。中座して、ソファで横になったら、目から水が流れた。
ウミガメの浜辺での産卵を思い出す。もう、ごんごんに下腹部が痛い。
 根性で夕食をたいらげ、病院に電話して、夜間急患として行くことにする。
 夜8時38分、義父と義妹に付き添われてタクシーに乗り、5分後、某病院へ
到着。保険証の提示を求められ、しばらくして受け付け完了。病室へ自力で行
く。痛みに襲われると歩けないため、痛みがやわらいでいる間に早足で歩く。
 分娩準備室で寝かされ、9時から30分間ほど、赤ちゃんの心拍と腹の張りを見るた
め「ベビーアクト」という機械、俗称「腹巻き」をつけられる。そしたら、機械の
針が陣痛を示す大きな山をいきな描く。「こりゃ、痛いね」と助産婦さん。はい、
痛いです。
 ベビーアクトを外した後は、内診。女医さんふたりに局部を触られ、子宮口の開
き具合を見られる。3センチ開いているらしい。陣痛が始まったと確認され、入院
確定。局部を剃髪されて、「Happy bag」という水色の手提げ袋を渡される。この中
には、分娩時の使い捨てネグリジェやパンツとか出血用パッドとか清浄綿などが入
っていた。その使い捨てネグリジェに着替え、使い捨てパンツとパッドをお尻にセ
ットすると、看護婦さんに浣腸された。ほとんど、出なかったが、儀式みたいなも
のか。
 分娩準備室に並ぶベッドのひとつがあてがわれて、そこで分娩時まで待機するよ
うに言われる。義妹にミネラルウォーターとカフェオレを買ってきてもらう。隣の
分娩室ではお産の人がふたり入っているようで、高いあえぎ声と押し殺したような
痛みを堪える声の2パターンの陣痛声が二重奏になって響き渡ってくる。ものすご
ーく痛そう……。これから数時間後、私もあのような声を発するようになるのだろ
うか……恐ろしい。
 夜10時過ぎ、義父と義妹が帰宅。以後、私はベビーアクトをつけられて、ひとり
ほっておかれる。何しろ、いっぺんに二人のお産があるためか、スタッフがいった
りきたり、走っている。が、11時半頃、高いあえぎ声が止み、ひとりの方のお産が
終わったようだ。でも、まだ、もうひとりの苦しみの声が続く。それも30分後ぐら
いに止んだので、無事生まれたらしい。ばたばたしていた室内が急にひっそりとな
り、明るかった天井の蛍光灯が消されてしまった。
 日付がかわって翌日となり、午前1時40分。ベッド脇のスタンドのみの薄暗い
室内。ふとパンツを見ると、どろりとした血がべっとりついている。助産婦さんに
よれば、卵膜(?)がはがれたとのこと。本格的お産突入のよう。数分おきに襲っ
てくる陣痛。子宮口が少しずつ開く時に痛いのだと感じる。身体の内部の閉じてい
るべき箇所がむりやり開かれようとしていて、それで痛いのだ、たぶん。よくまん
がなどで変身人間の話が出てくるが、実際、変身人間が存在するとしたら、変身す
る瞬間には身体中に激痛が走るだろうなぁと想像する。
 陣痛はよせてはかえす波のようにやってくる。波がなぎているときは天井を眺め、
大波がやってくると目をつぶって、思わず「……いったーい」「ぐぁあー」とか大
声を出してしまった。陣痛が収まる数分間が至福の「天使がくれた時間」に思えて
くる。目をつぶって陣痛大波に耐えていると、朝焼けの海--牛若丸発行、佐々木さ
んの写真集--がふわーと頭に浮かんできた。私はウミガメ。
 ベッドは、妙に硬くて短く、両手両足を適度に開いた部分がちょうどベッドの端
にあたり、そこに金具がついてる。両手部分にはしっかり握りしめられるように、
両足部分には足先を入れて、足が動かないように。ベッドは水平ではなく、背の部
分が少し上向いて傾斜しており、腰の部分には少し段があり、足に向かってまた、
少し下へ傾斜している。いわば、S字型になっている。つまり、両手を水平に開い
て金具を握りしめ、両足を少し開いて金具に足先を入れて固定し、陣痛を耐えろ、
ということらしい。なので、金具に頼ってみたが、ほぼ大の字になるこの姿勢は、
かえって痛いような気がして、すぐにやめる。
 それより、持参したホカロンを腰にあててみたところ、多少楽になる。肛門に激
痛が走るので、そこに片手をぐいっと当てる。のどが渇くので、陣痛のあいまあい
まにミネラルウォーターを飲む。すると、不思議なことに、力がみなぎる。水の威
力はあなどれない。
 助産婦さんには「午後7時頃に陣痛が始まったのね。ならば、朝7時頃が目標だ
から。順調にいけば……」と言われていたが、本当だろうか……。この痛さにあと
どれだけ耐えればいいのか。なるべくはやく終わらせたいと心底思う。
 深夜3時過ぎ、再び見回りにやって来てくれた助産婦さんにいろいろ質問する。
どうしたら、楽に順調にはやく生むことができるのか、と。したらば「とにかくリ
ラックスすること。声を出す人は、時間がかかる。声を出してはいけない。声を出
すと、声帯が緊張するでしょ。身体が硬くなる。すると子宮口の開きも悪くなる。
力んじゃいけない。目もつぶってはいけない。目をつぶると、痛みに酔いしれて“
ここはどこ?私はだれ?”みたいになって、よけい痛くなる。痛くないときに目を
つぶるのはいいけれど、痛いときには目をしっかりと見開いて、現実を見つめるこ
と。冷静になれる。それで、呼吸法に集中する。とくにはく息に気をつけて、落ち
着いてね。そうそう、あっ声を出してはダメ、ひっひっふー、ひっひっふー」。
 以後、助産婦さんの教えを守ろうと、痛いときには目を見開き、声を出さずに呼
吸法をしっかりするように、心がける。が、痛くてどうしても目をつぶってしまい、
声をもらしてしまう。激痛でしゃべることもできない。痛みが極大のとき、助産婦
さんの腕を思わず何度となく握りしめてしまった。人肌の暖かさやわらかさに激痛
が少しやわらいだ気がする。
 「痛みきたね、声、出さないで、そう、ひっひっふー……ひっひっふー……ひい
ていったね、そうそう、じゃあ、深呼吸して」。助産婦さんのヘルプで、なんとか
「リラックス」することに専念。
 ……以後、どうしたわけか、激痛なのに眠くて眠くて、うとうとしてしまう。リ
ラックスしすぎか。
 午前5時頃、再び、助産婦さんやってくる。薄手のビニール手袋をして局部を触
り「あれ、もう子宮口8センチひらいてるね。よくやったよくやった。順調順調。
やっぱり、朝7時ぐらいだわね」と。
 「じゃあ、もう、これ以上痛くないんですか」と私。
 「そう、最初の山は越えた。子宮口5センチ以上開いたから、もう、あとは生む
だけ。だけど、生む瞬間に最大の痛みになって、そしてばたっと終わるよ」と。
 「……わかりました」
 にたりと私は笑った。だって、ほんと「死ぬほど痛い」ではなかったから。そっ
か、この程度か。とはいっても、「死ぬよりまし」ぐらい痛かったが。
 それから1時間、子宮口が最大に開ききる一歩手前、9センチになるまで、分娩
準備室で激痛に耐える。
 午前6時「じゃ、分娩室へ行こう。歩いて歩いて」と助産婦さんに誘われる。
「え、自分で歩くんですか?」
「そうよ。自分で歩くの」
「……うん、痛くない今がチャンスですね」
もう、身体がひしゃげそうだったが、素直にベッドを降りて、スリッパはいて、小
走りで分娩室まで行く。
「ここじゃない、もっと奧、奧だから」と助産婦さん。
必死で歩いてる、いや走っているのに、なかなか、分娩室につかない(泣)。分娩
台を2台ほど見送って、一番奥の部屋へ。部屋の中央に置かれた分娩台へ自力で上
がる。本革張りで、ちょっと高価で硬いソファって感じ。
 両足に白くて長いレッグウォーマーのようなものをはかされ、タオルか紙かなに
かをお腹まわりにダムのように置かれて、私の下半身は、男性医師1名、女性医師
1名、助産婦さん、看護婦さん各1名の皆々にのぞきこまれて、公のものとなる。
なかなか破水しないと心配顔の助産婦さん。その間、子宮口が最大10センチに開き、
点滴をうたれ、局部麻酔を何本かぶすぶす注射されて会陰切開され、「じゃあ、お
手伝いしますよ」と、男性医師に馬乗り状態にされてお腹を思いっきり押され、び
っくりして、「ぎゃおー」と雄叫び声をあげ、あまりの痛さに目をつぶってしまっ
たら「声出しちゃダメ、ほらほら、目をあけてお腹のほう見て、ほら、今よ、今、
見える? 赤ちゃんよ」
 もう、わけわからないまま、目をあけてお腹のほうを見ると、あのよくビデオで
見る出産の瞬間の、長いへその緒をつけたぬるりとした青黒い赤ちゃんが助産婦さ
んの手にあった。
 2002年某月某日朝。2658グラム、元気な女の子の赤ちゃんだった。

(41才、初産、自然分娩)

追記)
出産直後は大便秘を解消したような爽快さがあると聞いていたのに、私ときたら、いっかなその爽快感に襲われず、脂汗が出てくる始末。看護婦さんが「じゃあ、お小水とりましょうね」と、私の尿道に管を入れてお小水を取ってくれたのだが、でることでること、その量2リットル(もしかしたら、4リットル。今や記憶曖昧)。どうやら、緊張のあまりおしっこの出し方を忘れてしまったらしい。「こんなにお小水が出た人、私、初めてよ」と、看護婦さんがびっくりされていた。

分娩前、しきりに水を飲んでいたのはいいが、一回もトイレに行かなかった(行けなかった)。そのせいだろう。脂汗の原因もおしっこのがまんのしすぎだろうと思う。だけど、我慢しているという実感がなくて、とにかく、なんでか脂汗がでる、つらい、という出産直後の状態だった。

同室だったある女性は、「もう、いっぱいおしっこ垂れ流しちゃった」と、ぺろりと舌を出していた。

そう、教訓。出産時は、おしっこをがまんしないこと。お漏らしや、よしである。

2010年月06月04日 金曜日
非電化

我が家の車庫は、土手っぱらに穴を開けて、コンクリート製四角いトンネル状態で、バス通りに面した公道の出入り口には、電動式のシャッターがついている。ほぼ三メートル幅のシャッターで、手動では重くて、15年ほど前に電動に変えたという話。

で、私は、昨年夏〜秋の「巨大地震が来そうで怖い」病にかかって以来、ときどき、わけもなく備えをしてしまうというそのひとつに、車庫に18リットル入りの水タンク10個を備蓄。そのときもふと疑問に思ったけど、今日、家族と話していたら、「もし、停電になったら、車庫のシャッターは開くのだろうか」というテーマが浮上。

もしものとき、あの水があるから少しは安心だわ、みたいに思っていたけれど、もしものときは、電気だって何日か通じない。そのときこそ、車庫の水が必要なのに。停電になった時、あの車庫の電動シャッターは開くのだろうか?と(その前に、その車庫は無事なのか、という問題があるけど……あ、その前の前に、私は生きてるのかという問題もあるけど……)。

すぐにメーカーに問い合わせたら「シャッターを巻き込む部分が外側に出ていれば、手動で開けることができるが、内側にある場合、停電になった時に外から手動でシャッターを開けることはできない。物理的に穴を開け、切り開いて壊して、入るしかない」というお答えでした。つまり、手動モードがないのだ! 唖然呆然。それって、欠陥商品じゃないか? 工事時に説明もなかったというし。

だが、ふと考え直して、こういう電動式シャッターをつける場合は、もうひとつ、ドアが後ろ側についているとか、そういうもんなんだろうなと。だが、我が家の場合、ドアをつけるなんて、もうひとつトンネル掘らねばならないかもしれない。なにせ、まわり中、土なんだから。

姑は、水ならば、まだいい、人が閉じ込められたらどうするのか、命に関わる、そんな欠陥商品をいまだ製造して売り出しているなど、言語道断、もっと考えてくれというようなことを、やさしげな言葉でにこにこ笑いながらメーカーの人に伝えていた。

私は、やっぱり、電気製品は、要注意だなと思ったのだった。なにを購入するときにしろ、非電気世界になった場合、どうなるのか、と想定して考える。「非電化」製品、もっと、いろいろあるといいのにと思った日であった。

あと、便利とリスクの関係を、購入時にもっと考えるということか。

ま、ともかく、停電時にうちの電動式シャッターが開くのかどうかの解がわかって、よき日でございました。

2010年月05月17日 月曜日
「うつし世の静寂に」

今日は、新百合まで徒歩20分とバス5分で行き、モダンな建物の川崎市アートセンターへ。ドキュメンタリー映画「うつし世の静寂に(しじまに)」の試写会だった。「インテリア・デザイン・建築を結ぶ『隔月刊コンフォルト』」の多田さんに教えていただいて、これは見てみなくては、と、あれやこれやのやらねばならない生活雑事をすべて棚上げして、万難を排して、行って見た(って、おおげさすぎ)。

映画は、この新百合からほどちかい初山や黒川など、神奈川県川崎市北部、多摩丘陵が舞台。初山に残る閻魔様「十王堂」から始まり、無尽講や念仏講、巡り地蔵、獅子舞や田植えや稲刈りや谷戸の棚田などの風土とそれを守る人々を静かに映す。この風景は、同じ神奈川県三浦市の農家に育った私の原風景によく似ていた。

懐かしいけれど、今は、もうない三浦の原風景が、ここ多摩丘陵に細々と残っていることの奇跡。こんなふうに記録された映画があることの安堵感や、それを見る機会を得られたことの感謝の気持ちに襲われた。

そして、ラストは再び閻魔様の「十王堂」に戻って終わる。

「わるいことをすると、じごくにおちて、えんまさまにしたをぬかれるよ」と、そういえば、小さな頃によく大人に言われた気がする。閻魔様は、物心もつかないうちから、大人たちが子供を諭すときに、つい口に出してしまうようなことかもしれない。

「じごくのえんまさま」を「根源的道徳心を養う」と、映画の中では言っていた。なるほどなぁと思う。

あと、「祈る」という行為の大切さみたいなもの、世代を超えて伝えていくべきものとは?といったテーマが、直球ど真ん中のナレーションで語られる。ひどく共感しつつも、私の中には、どこか違和感があった。

映画館を出て、新百合駅前に行くと、そこではストリートミュージシャンが演奏の準備をしていた。しばしあとで、もう一度駅前を通ると、甘くマイルドな、とぉっても透き通った声が駅前を包んでいた。小田和正「言葉にならない」、中島みゆきさんの歌などをカバーして、けっこう年配の人たちが足を止める(つまり、私も)。

彼らは「コーラルリーフ」という男性二人組のグループ。すぐに立ち去ろうにも、曲も知ってるし、甘い声に魅せられて、聞き惚れる。とはいえ、なんだろう、なにかが、足りない。彼の声には。新百合という街に感じる、車がなくて、妙にきれいすぎて嘘くさい、みたいな感じか。

そして、オダキューOXの生鮮売り場横の椅子にすわり、娘と自販機ドリンクを飲んでいたところ、キティちゃんの大きなプラスチック製ピンク色のバッグを持った、おしゃれで派手なファッションのおじいさんがやってきて、目の前を通り過ぎていった。これで2度目の目撃。新百合駅周辺を徘徊するハローキティおじいさん。目立つ。でも、基本、おしゃれなので変質者的には見えない。だけど、「あれ、あの……ちょっと……えっ?」という異質な存在である。

かつて、大昔(80年代半ば〜90年代初頭)、銀座や新宿で派手派手ファッションのタイガーマスクおじさん(自転車に乗っている)を何度か見たことがあったけれど、ハローキティおじいさんは、そのタイガーマスクおじさんと、街における異質な感じがそっくりだと思った。

というわけで、世の中には、いろいろな世界が共存していて、私はアナザーワールドを一日のうちに行ったり来たりしているようだ、と感じて目眩いのする、濃厚な一日でした。あるいは、私の中にいろいろなアナザーワールドが内在しているのだ、と自覚されるような……。

 

2010年月04月01日 木曜日
赤い鳥「竹田の子守唄」に涙そうそう

小1の娘が、最近さかんに「翼をください」を歌うのだけど、調子っぱずれこの上ない。これは、オリジナルを聞かせてあげなくては、とずっと思っていた。

で、今日、ユーチューブで検索して、赤い鳥「翼をください」を聞かせてあげた。あれっ、自分でもいまいち違って覚えていたので、ちょっと驚いた。

が、話はそうではなくて、70年代初頭のミリオンセラー、この「翼をください」のA面に入っていたのが、「竹田の子守歌」だったということを、ユーチューブのリストで初めて知ったのだ、私。

そして、私は生まれて初めて?かもしれない、赤い鳥「竹田の子守歌」をユーチューブでしっかりと聴いた。なぜか、ただひたすら涙がぽろぽろ出た。まさに涙そうそう状態。娘が不思議な顔をしている。

実は、この曲、私が娘に歌ってあげていた子守歌ベスト3で、「竹田の子守歌」→「てんさぐの花」→「ふるさと」と、赤子だった娘にこの順番で毎晩歌ってあげていた。なにしろ、とても好きな歌だったから。竹田の子守歌は特に好きで、ずっと、昔からの日本の民謡だと思っていた。

だが、娘はこの曲が嫌いで、「歌わないで」とある時期から言われてしまった。この歌をきくと悲しくなって、怖い夢を見るからだという。だから、最近はすっかり歌わせてもらってないのだけれど。

とはいえ、娘がこの歌はいつの時代のものかとしつこくきいてくるので、ウィキペディアで調べると、大阪・被差別部落の民謡が元唄で、それを1969年、フォークグループの赤い鳥が演奏したことが世に知られるきっかけとなったとある。シングルカットされてた年は1971年。

私が10歳の時である。三年間でミリオンセラーと書いてあるが、ということは、私が10歳から13歳。物心もそろそろはついていた頃だ。

たぶん、この時期に、どこかで何度も私はこの曲をきいていたのだろう。でも、いまいちまだ頭が働いてなくて、歌謡曲と民謡の区別もつかなくて、いつどこで聴いたのかもすっかり忘れちゃったけれども、心のどこかにずっしりとこの曲がしみついてしまったのだろうと思う。

で、現在、私は韓流ドラマ、イ・ジュンギの「イルジメ」 にはまっていて、その中のエンドロールの曲「銀杏の丘」が、特に胸に響き、サントラCDを買い、歌詞カードでハングルを見つつ、ノートに書き写して、一生懸命自分でも韓国語で歌おうとチャレンジ中なのだけど、歌ごときにこんなにパッション傾けることなど、思春期以降ほぼ皆無だったのだけど……。おー、そうだ、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」以降かも。

で、話は戻って、この「銀杏の丘」と「竹田の子守歌」にどこか共通する匂いを感じるのだ。それは韓国・朝鮮の人々の心なのか? と。

私は神奈川県生まれだから、被差別部落のことはいまいちわからない。だけれども、横浜すぐとなりの横須賀の高校に通っていた頃、「ちょんばっぐ」とか「ちょんこう」とか、そーいう言葉を知るようになり、在日朝鮮人(韓国人)のこともなんとなく知るようになった。被差別部落=在日朝鮮人ということもその頃なんとなく知ったような気がする。そうだ、そのころ、まだ、学生運動のなごりがあって、部落解放とかいっているお兄さんが我が高校にもいたのだ。そういえば。なにいってるのか、その内実はよくわからなかったけど。

そうなのだった。私が大学で社会学部をえらんだきっかけも、どういうわけか、ある日、日経新聞を読んでいて(父の愛読紙)、朴大統領が暗殺された事件があって、どうしてこのようなことが起こるのか、と訝しくて、大学は社会学部にしようと思ったことを記憶してる。

近くて遠い国、韓国が一気に身近になってあこがれの国となったのは、昨年10月にうっかり見てはまった韓流ドラマ「冬のソナタ」のおかげだけれど、心の核に響くなにかを運んでくれるドラマや唄などのむこうに朝鮮半島の存在があるようだと、「竹田の子守歌」を聴いて、気がついた一日でした。

あ、そして、「竹田の子守唄」が、小さな娘にすら“悲しい歌、怖い夢を見る”といわしめたわけが、少しわかる気がしたのだ。

(イルジメのサントラをがんがんききながら……、東京都あきる野市網代の少女まんが館にて)

2010年月03月18日 水曜日
花粉症が治っている!?

ここ数年来、この時期、私はくしゃみ鼻水、目は真っ赤、頭もーろーという状態になり、ボックステッシュを小わきに抱えて出歩く程であった。鼻水があとをたたないから。ほんと、ほとんど使えない人だった。

だけれども、今年は、まだ、なんとか使える人になっている。なんか、目や鼻はむずむずするし、身体もだるい気がするのだけど……。泉のようにわきでる鼻水がほとんど出ない。血管うきでた真っ赤な目にならない。もちろん、朝昼晩とさしていた目薬も必要なし。

今年は花粉が飛んでないのかなと思ったら、そういうわけじゃないようで、どうやら、私の花粉症ほぼ完治?という快挙がやってきたようなのだ。

理由を考えてみた。

●ひとつは、去年は大腸内視鏡検査を2回やったので、大腸洗浄を2回もやったことになり、それがよかったのではないか?ということ。

●もひとつは、相当いい加減ながらも一日二食の小食を心掛け、水酸化マグネシウムを常用して水をたくさん飲み、かつてほどの激しい便秘がなくなったこと。一日になんどもうんちが出る日のほうが多いくらいになったこと。3、4年たつか。

●心身統一合氣道を続けて、前転後転など、ほぼ35年間ごぶさてしていた動きをいろいろするようになり、身体がやわらかくなったこと。

●歩き方、座り方、立ち方など、左半身をかばうような癖があることを自覚したため、バランスよく歩く、座る、立つ、ということを心身統一の要領で心掛けたこと。すでに、そのおかげか、左にあまり曲らなかった頸が楽に曲るようになった。

●マクロビを数年やって花粉症が治ったという女性から「牛乳、卵、肉、油」を食べなければ、絶対に治ると言われて、話をきいた直後は絶対にやろうと思ったのだけれど、夫に相談したら「それって、死ねば?ってことじゃないの?」とさとされ、なるほどと思って、無理のない範囲で、「控える」ように心掛けたこと。すでに3年程たつか。

●ヨガの先生から「常に鼻呼吸をすれば、花粉症なんて治ります」と言われて、ここ半年程、鼻呼吸を心掛けたこと。

●西式健康法のひとつ「温冷浴」をこれまた無理のない範囲で続けてきたこと。これも3年程たつかも。毎日なんてとんでもなく、ときどきしかしないし、あまりにごぶさたのときは、お風呂の最後に水シャワーを1回だけ浴びるという、相当にいい加減なものなんだけど。

などなど、あれこれと身体の不調が噴出して、病気三昧だった40才前後の反省から、生活を見直し、自分なりに研究して、いろいろ実践していたあれやこれやが効を奏したのかもなぁ〜なんて、うっすら思ったりしていた……のだが、すごい理由を近所のママ友(福山雅治ファン)から指摘された。

●「冬のソナタ」にはまり、ヨン様に恋をしちゃったため、身体のひとつひとつの細胞ががぜん活性化して、生命力がアップしたのでは?(昨年10月以降)

というものです。なるほど、決め手はこれかもしれない。すとんと納得してしまった自分が情けないやら、おかしいやらであります。

だって、あれほど、胸がばくばく脈打って鳥肌たてながらドラマを見たのは生まれて初めてかもしれない……。本当の恋なんて忘却のかなただけれど、確かに恋って、細胞のレベルから活性化する感じがあるなぁと。恋は花粉症にも効く!?

2010年月01月24日 日曜日
新型インフルエンザと信仰心

7才になる娘が急に熱を出した。ここ1年ほど、まったく病気知らずだったのに。新型インフルエンザだったらどうしよう、脳症になったらどうしよう、とあらぬ心配がどうしても小さくわいてくる。

だけど、すでに新型インフルエンザやタミフルに対しては、ひととおり調べてーといってもネットだけだがー答えは出ている。ワクチンは打たない。タミフルは飲まない。解熱剤も飲まない。医者には行かない。安静にしっかり寝て、水飲んで、食欲わいてきたら、ちゃんと食べさせて治す。

だけど……薬を飲まないばっかりに、脳症ってやつになったらどないしょう? って、熱は39度3分だし、鼻水も咳もないし、うわごともないし、節々も痛くないというし、なにしろ、意識がしっかりしているし、顔色いいし。で、まずは心配ないために、わずかなもしかしてが気になって、再び、「インフルエンザ脳症」について、ネットサーフィンする。

で、やっぱり、グレーゾーンなのだ。はっきりとしたことはわからない。

私にとってはっきりしているのは、タミフルを飲むと、意識障害がけっこうでるということ。近所のママさんたちから体験談として複数聞いているから。小学生の我が子が新型インフルエンザにかかって、タミフルを飲ませたら、ぼーっとしてわけわからないうわごとをいう、という話。身近なだけに、なんだか、おそろしい。やっぱり、と思う。

(人は信じたいことだけを、信じようとする)

ま、インフルエンザの子供への集団予防接種がなぜ廃止になったのか、知ってる人はいるのだろうか? なぜ、インフルエンザが、普通の風邪ではなくなったのか? 要するに風邪でしょうが、とネットサーフィンして調べれば調べるほどそう思う。

生来のあまのじゃく気質なため、UKで医療従事者が3割しか新型インフルエンザのワクチンを打たなかったという話を聞いて、やっぱり、と思ったり。

なんだか、この新型インフルエンザにどう対応するか、ということを考えるうちに、私は、人間は何を信じるのか、そして、信じたことを実行することが、その人にとって真実となる、というようなことをぼんやりと考えるに至る。

なにが真実かはっきりしたことがわからないのなら、その人が一番「真実」と理解できたものを信じるしかない。そして、その人のその選択を尊重するしかない。

つまり、限りなく信仰心に近い。

信仰は尊重しなければならない。万人にとって、お互い違って当然なのだから……たぶん。

んで、付け加えれば、今の社会には、この信仰心が、宗教にかぎらず、いろいろな場面で求められているような気がする。なにか絶対的な正義や真実がわからないのならば、なにを信じるか。揺るぎなくなにを信じるのか。その術を知りたいみたいな気持ちが、私にはもちろんあるし、たぶん、多くの人々にもあると思う。

新型インフルエンザはその試金石のような気がする。

2010年月01月20日 水曜日
心身統一合氣道のお稽古「リラックスして」

この日曜日と月曜日は、心身統一合氣道のお稽古に参加する。

心身統一合氣道は武道とはいえ、その目的は愛と世界平和なので(めちゃめちゃ簡単にいうと)、道場に入って、先生や先輩方や顔見知りの仲間を見ると、とてもほっとする。

日曜日は、前まわり受け身と二教技を教えてもらう。

前まわり受け身とは、頭をつかずに、身体に衝撃を受けずに前転すること。何回かやると、目が回る。でも、気持ちいい。

二教技は、ちょこっと応用すれば、「こんやろうっ」と胸ぐらを捕まれたときに、ふんわりやんわり相手の手を包んで倒すことができる技(でも、とっさにそんなことができるようになるには……いつになるやら見当もつかない……遠い目……)。

月曜日は、心身統一道の初歩、立ち姿の統一、折れない腕、曲がらない腕などをおさらいして、あと、合氣道の技をいくつか。すでに忘却してるけど、ひとつは小手下ろしのあとに、相手をくるんと回転させて腹ばいにする技を教えてもらった。

私はこの「小手下ろしで相手をくるん」が最初全くできなくて、いくら目で見ても、実際に先生や先輩と組んでやってもらってもできなくて、「この飲み込みの悪さはなにごとだろう」と自分でも情けなくなった頃、最後に左肩の力を抜いたら、できた。

ありがとうございます。手取り足取り教えてくださった先生や先輩さま。

で、そうなのだ。なにしろ、力を入れてはいけない。相手がそうしたがってる方向へ導くような、そういう手助けをする。相手の動きに合わせ、まさに、手を添えて助けるという、そういう気持ちでリラックスしてやること。自分は動かない。力まない。

「相手をくるんと回転させて、腹ばいにさせてやろう」なんて思ってはいなかったんだけれど、どうやら無意識にそう思っていたらしく、肩に力がめちゃめちゃ入って、全然、できなかったということみたい。

「リラックスして」とよくいわれるが、これが、まぁ、よく考えるとどういうことなのか、よくわからない。奥深いことである。

リラックスしてやってるつもりだったけど、意識せずに身体に力が入ってる。「リラックスする」ということの意味を、身体を使うことでなんとなく少しはわかったような気持ちになる合氣道は、ほんと、いつもおもしろいなぁと思う。

不思議なことに、この日、ずっと悪化していた左首の痛みが消えていた。

2009年月12月27日 日曜日
男のスカート姿、うすぎたない風

小田急線・新百合駅前で男のスカート姿を目撃。グレーのツイード生地、ちょうちん型というか登山ズボン型というかとび職ズボン型というかムスリムなパンツ風というか、膝下丈で裾がほつれている。そこから伸びるがっしりした茶色い足にはすね毛がいっぱい。登山靴のような頑丈な革靴をはいて、キャラメル色の毛糸帽をかぶり、もしゃもしゃした髪がその毛糸帽から少しはみ出す。うすよごれたスリムな黒い上着を着ている。

全体のシルエットはスナフキンのようでかわいいのだけれど、とてもきたならしい感じがする。

スカート姿といっても違和感がないのが特徴というか。違和感ないけど、ホームレス?と一瞬見まごうきたなさ。地黒?なのか相当黒っぽい肌の足のすね毛やそれぞれの服のうすよごれぶりやスカートの裾のほつれなどが、そういった印象を与える。たぶん、ホームレスじゃないと思うけど、わからない。後ろ姿だけしか見なかったし。

今年は男のスカート姿がけっこう見られるようになったと聞いてるが、新百合駅前で見たのは、私は初めて。というか、私の行動範囲はせいぜいが新百合周辺と五日市周辺なので、私の視野にまで入ってくるというのは、そうとう男のスカート姿が「変」じゃなくて、「ああ、またいたか」ぐらいのレベルにはなってるんだと思う。少なくとも都心では。

で、この郊外の街、徒歩が似合う素敵な新百合駅前に、きたないスカート姿の男性ひとり。まちがいなくおしゃれさんだし、センスもいいし、だけど、うすぎたなくて、新百合駅前の一様にこぎれいな人並みの中でぷっかぷかに浮いていた。

2008年04月14日 月曜日 雨のち晴れ 朝冷え込み昼過ぎ暖かく夕方再び寒い
買い物周遊のち「森遊びのおひさま組」と「のんきな家」

昼下がり、日用品不足メモを片手に久しぶりの買い物周遊へ。

まず、車で5分ほどの五日市のドラッグストア「バイゴー」でビオフェルミンや歯間ブラシ、バイゴーからほど近い五日市農協「愛菜」でダイコンやりんごなどおなかにやさしいお野菜とお豆腐を購入。

次に秋川沿いの旧道を走って網代の築37年十坪ハウスな新居へ冬物洋服を運び入れて、引越作業を少し進めた。

その次は、網代橋を渡り、五日市街道を走ってイオンモールへ行く。サティ食料品コーナーでインスタントコーヒーやヨーグルト、シリアル、豆乳、野菜ジュース、ソーセージ、こしょう等、大人用食料を購入。メモにはないエバミルクを、ついつい、買ってしまう。だって、コーヒーのそばにあるもんだから、なんか急に欲しくなってメモ以外のものをつい買ってしまうなぁ、スーパーの買い物って。

レジはがらすき。ほとんど並ばずに済んだけど、また、忘れてしまった。マイバッグ! 車に常備してあるのに。「買物袋持参スタンプカード」は忘れなかったのに! このカード、1回マイバッグを持参すると 1個スタンプを押してくれて、20個貯まると、100円の買い物券となる。つまり、えっと5円損しちゃった。エコ生活にも反しちゃったし。

ぐぅ……軽い後悔におそわれつつコーヒーが飲みたくなって、スタバしようかなぁとふらふらしていたら、カルディが目に入ってくる。
なんとなくふらふらとカルディに入り、試飲コーヒーをいただき、ひとくち飲むと「あ、もう、これでコーヒーは満足、しあわせしあわせ」な気持ちになってしまった。

世界あちこちの食材を眺めながら、おいしいコーヒーを歩き飲みしつつ、中野が喜びそうなチョコレート菓子と女子のからだにめっちゃよさそうなドライフルーツ、なつめを買ってしまう。もちろん、買い物メモにはない。やっぱり、モールは魔物なり。

いつもより試飲コーヒーの量が多くて、なかなか飲みきれず、実はすぐに「しまった」と思った。多めな量の試飲コーヒーで店内滞在時間を長びかせて、なにか欲しくなって買わせちゃう作戦か? 私はすっかりねぎかもしちゃったかもかも。

ラストは、イオンから車で10分強ほど走り、近所のママ友Iさんの家へ。生活クラブ消費材のピックアップ。今回は班購入のお酢と新玉ねぎだけ。

午後3時過ぎ、やっと帰宅。荷物を家に運び入れ、片づけて……ふぅ……2時間弱の買い物周遊だった。

3時半、歩いて保育園へ娘を迎えに行き、そのまま、ふたりで10分ぐらい歩いてお山仲間「森遊びのおひさま組*」の打ち合わせのため「のんきな家*」へ。庭の丸太テーブルに座り年間スケジュールやアウトドア雑誌『Be -Pal』を見つつ、近場の冒険遊び場(プレイパーク)*「国分寺プレイステーション」の見学会日時等を決める。「大久野に冒険遊び場をつくろう」という夢への第一歩。

この会合、近所のママ友6人と小学校2年生から1歳までの子供9人の参加。大人が打ち合わせしている間、子供達は、井戸や「どんぐり広場*」や自転車などで遊び回る。「そっちいっちゃだめでしょ」「ほら、あぶないあぶない」などなど、子供に気をとられつつ、話があちこちにとびつつ、お菓子食べつつ、"のんき"モード全開。

5時半、防災無線から音楽が流れたので、「じゃあ、そろそろ」と、「のんきな家」使用料各自200円、6人分あわせて1200円をトイレの募金箱に入れて解散。

6時前に帰宅。晩ご飯は、親子3人、家の食卓を囲んで。電気炊飯器で炊いておいた白いご飯、いわしの梅煮(生活クラブの冷凍ものでゆでるだけ!)、青のりのみそ汁、のらぼう・しいたけ・キャベツの炒めもの、きゃらぶきなど。

食後、娘のアレルギー対策のひとつとして、胃腸を整える作戦をしてみようと思い、昼間買ってきたりんごをすりおろして食べさせ、ビオフェルミンも飲ませてみた。娘はりんごもビオフェルミンも「おいしい、おいしい」と喜んで食べ、かゆみも出ずに一安心。

だが、最後にカルディで買ったなつめを食べた直後、アレルギー勃発。「かゆい、かゆい」と泣き顔に。娘の身体を見ると、腕や首まわりが赤くなっている。なつめは中国産であったが、うーむ、何に反応しているのか? 強めのステロイド入り軟膏「リンデロンVG」をつけると30分ほどでおさまったので、たいしたことはないけれど。

うむむむ、娘の身体がなにかに反応している。一体なにに反応してるのだろう。
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*森遊びのおひさま組:2005年4月から活動を始めた子育てママ友グループ。都心部から日の出町に引っ越してきた乳幼児を持つ"天然生活"志向の母親が中心となり、「近所のお山お散歩地図をつくろう」と月2回、近所の人たちを誘い集って、子供と一緒にわいわいがやがや近くの山や川へ遊びに出かける。生活クラブ「地域福祉推進のための費用援助」による助成金をいただいたり、日の出町ボランティアセンターの印刷機を貸していただいたりしながら、2007年5月に「2歳からいっしょに歩ける 里山マップ1」完成。日の出町大久野地区の一部のお店に一部50円で置かせてもらっている。日の出町発行の『**』や生活クラブ生協の情報誌『ジョイエス』『生活と自治』、西多摩地域の週刊新聞『西の風』などに紹介され、評判良く売れ行き好調。

*のんきな家:古い十坪ハウス(昭和時代に建てられた平家の貸家、四畳半六畳キッチンお風呂トイレの日本家屋、別名「みそしるハウス」)を改築して、知り合い関係に開放している"のんき"を推奨するフリースペース。故にごく近所の人でも知らない人は多い。2006年4月、都内初の里山保全地域となった横沢入(よこさわいり)の北側山麓となる羽生山の麓にあり、庭には丸太テーブル、ドラム缶お風呂、だるまストーブ、手作りのパン焼き釜などが設置されている。井戸もあり、山斜面にはかたくりなどが咲く。子供の遊び場としては絶好の場所。すぐとなりの十坪ハウスに住む自然公園センターにお勤めのだんなさん、ユニークな幼稚園で長年保育士をしていた奥様の「不便を楽しむ」年配御夫婦が運営している。
*冒険遊び場(プレイパーク):いわゆる公園や遊園地のような特別な遊具はないけれど、廃材やタイヤや水、砂、のこぎりなどの木工関係、火遊びなど、子供達がやりたいと思うことを、自由に楽しむことができる、禁止事項のない多少の危険もよしとする場所。「けがと弁当は自分持ち」がモットー。歩いて、あるいは自転車で通える距離にあることが大切。世田谷の羽根木プレイパークが日本初の冒険遊び場といわれる。年齢を問わず、近所の子供達が自然に集まり遊ぶ場が失われつつある今、子供たち(親も)が実はもっとも切望している場所ではないか。1940年代、デンマーク発祥。イギリスで発展して欧米に広がり、1970年代半ばに日本にも導入される。近代の鬼っ子的存在。現在、ヨーロッパでは1000ケ所以上、日本でも250ケ所ほどあるという。
*どんぐり広場:羽生山麓の小高い広場の通称。くぬぎやこならの大木が何本もあり、秋になると広場に敷き詰めたようにどんぐりが落ちてくる。

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